3月に入り、暦の上では春の季節になりましたが、まだまだ朝夕の冷え込みが厳しく、皆さま体調を崩されていないでしょうか?私たち、税理士事務所職員は、確定申告が佳境に突入し、体調を崩していられない日々が続いております。
さて先日、私が担当させて頂いているお客様が、地元熊本にてラーメン屋さんを開店されたご縁もあり、開店のお祝いを兼ね熊本に行かせていただきました。私にとって熊本は、マークス設立後、最初の慰安旅行で訪れた街で、当時見た熊本城の勇壮な姿は今でも忘れられない思い出深い場所の一つであります。
しかし、皆さまもご存知の通り2016年4月14日に発生した熊本地震により多大な被害を受け、残念ながら多くの場所が立入り禁止になっており、天守は足場に覆われ、当時の面影は少しもありませんでした。
そんな熊本城の歴史を紐解いてみると、築城より多くの困難を乗り越えていることを知ました。
熊本城は、文明年間(1480年頃)に、出田秀信が千葉城を築いたのが始まりだそうです。その後、加藤清正が茶臼山の丘陵地帯に大規模な築城を開始し、1600年に天守閣が完成しました。城郭の周囲は約9kmあり、大小の天守をもつ複合天守閣、長さ約240mもの長塀をはじめ、櫓49、櫓門29を数える堂々たる偉容を誇ったそうです。
お城には、石落としや鉄砲孔などの様々な戦闘のための工夫はもちろん、籠城に備えて数多くの井戸が掘られ様々な食糧備蓄の工夫がなされました。そして、1632年に細川忠利が熊本城に入り、以後、熊本藩細川家の居城として拡張を続けました。
この熊本城に最初におとずれた困難は、1625年(寛永2年)の大地震でした。この地震により熊本城の火薬庫が爆発し、天守付近の石壁、城中の石垣に多大な被害が発生したそうです。
その後、1871年(明治4年)に熊本城二ノ丸に熊本県庁が置かれました。しかし、時代は明治維新の真っ只中。1877年(明治10年)に西郷隆盛の決起による西南戦争が発生し、政府軍の拠点となった熊本城は、薩摩の西郷軍の重要攻略目標となりました。熊本城自体は、城落せず難攻不落の名城と称えられましたが、この西南戦争の際、原因不明の火災が発生し「宇土櫓」を残して「大小天守」「本丸御殿」等、ほとんどの櫓・櫓門は、焼失してしまったそうです。
その後の熊本城は、荒れ果てた姿のままでしたが、1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を期に、熊本市は一般からの寄付も募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守と平櫓、塀などを再建し、本丸一帯を公園として整備し入場を有料化にされました。天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等が展示され、最上階は展望スペースとなりました。二の丸に各種官庁が入る合同庁舎も設置され、熊本城は観光地として有名になりました。
直近では、2007年(平成19年)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元されました。
このように熊本城は、多くの困難経験し、それを克服し現在にあるようです。
現在、行われている修復作業は、天守閣を3年で、また全体の修復を20年で終える目標を掲げられています。また、あの勇壮な姿を拝見できることを楽しみに、陰ながら復興を応援していこうと思います。
毎月、職員達が交代でつれづれなるままに綴っております。