新年あけましておめでとうございます。
皆様方におかれましては、新春を晴々しい気持ちでお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年は年明け間もなくから新型コロナウイルス流行の影響を受け、翻弄される日々が続く中、外出自粛や新しい生活様式の実践など、ライフスタイルの大きな変化を余儀なくされた1年となり、今までとは違ったお正月を迎えることとなりました。
年明け最初の定番行事「初詣」。1年の計は元旦にあり。充実した1年を願うための初詣は、多くの人にとって定番行事です。とはいえ、世間に吹き荒れるコロナ禍の風。人が密集する場所は避けたいものです。混雑を回避するため、三が日を避けた「分散参拝」や12月から正月の縁起物を扱う「幸先詣(さいさきもうで)」を呼びかけて対応する神社や寺院が増えているそうで、お参りの風景は大きく変わりそうです。
初詣で京都までは行けませんが、昨年秋頃に訪れた二年坂についてご紹介いたします。
娘と二人で、コロナは気になるところですが、京都へぶらりと出掛け、特に行く当てもなかったのですが、駅のポスターの二年坂の風景にふと目が止まり、行ってみようかということになりました。たくさんの人で溢れていて驚きましたが、夕暮れ時のライトアップがとても綺麗で心は和みました。
私は行ったことがなかったので「二年坂」について少し調べてみることにしました。
なぜ、二年坂(二寧坂)という名前なのか?
1.大同2年(西暦807年)に坂が整備された時よりこの名前が付けられたという説。
2.産寧坂の下なので二寧坂で呼ぶようになったという説。
では、なぜ産寧坂なのか?
豊臣秀吉の正妻(北の政所)「ねね」が高台寺に居を構えていたというのは有名な話。
その「ねね」が子供の誕生を念じて(産・念)坂をあがり、清水寺にお参りしていたことからその名前がついたという説。
二寧坂で転ぶと二年以内に死ぬ?!
「ここでつまずき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えは「石段坂道は気を付けて」という警句が語り伝えられたものと思われます。
「某日誌」によると「宝暦八年(1758)枡屋喜兵衛なる者、官の許可を得て、之を開拓屋地と為す」とある。以来この付近は枡屋町と称しています。大正初期現在の家並みとなり、国の町並み保存地域に指定されています。
竹久夢二寓居跡
明治・大正・昭和の3代にわたり、波乱の人生を送った不世出の詩人、画家、竹久夢二は大正3年秋頃笠井彦乃と出会い、運命的な恋に落ちました。彦乃は東京日本橋の紙問屋の一人娘であり、彼女を愛する父は、後継者であった娘の恋に反対でした。大正4年に結ばれた二人は互いに「山」「川」と呼びあいつつ、人目を忍ぶ逢瀬を重ね、ついには大正5年京都に逃れました。夢二を彦乃が追うようにして訪れ、短くも至福の日々をこの地で送りました。夢二は彦乃が訪れるまでの数ヶ月間をこの家で過ごしました。
行く前に下調べをしてこのような歴史を知っていれば昔の情景などをもっと感じられたのではないかと思いました。
今年も微力ながら皆様のお役に立てるよう精進していきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。
新型コロナウイルスの感染影響により、被害や損害を受けられた皆様に心からのお見舞いを申し上げますと共に、一日も早い収束と平常生活への回復を切に願っております。
毎月、職員達が交代でつれづれなるままに綴っております。