表題の句は、明治30年、正岡子規の作です。
若くして結核に冒された子規は、日清戦争に記者として従軍し、病状が悪化。帰国途中には死の渕を彷徨いました。なんとか一命は取り留めたものの、20代後半には結核菌が脊椎を冒して歩くことも座ることもままならず、幾度も手術を受けましたが晩年3年間は寝たきりとなって、明治35年に34歳の若さで亡くなりました。
人がみな寝静まった夜、子規だけは目覚めていて、蚊張の中をとぶ蛍をみつめている。
しんと静まり返る夜中に、ひとり目覚めている回復の見込みの無い病床の自分と、翌朝には落ちてしまうホタルを重ね合わせていたのでしょうか。
先日、千里の方で勤務する娘から「今日、会社の人たちと万博公園でホタル見てから帰る」と連絡が入りました。
もう、そんな時期なのかと驚くと同時に、私自身、長い事ホタルを見ていないなぁ〜と思いました。
私は昭和36年に大阪の住之江で生まれました。まさしく高度成長期の時代、海が埋め立てられ自然が破壊され始めて空気の汚れた大阪の中、喘息のあった私は小学校低学年まで毎年夏休みは父の実家のある三重県の名張市で過ごしていました。
隣の家との境に塀も無く、周りは畑だらけでしたので遊ぶものは自然だけでした。伯父の家の前が大きな材木市場でしたので、積み上げられた木の上に座って日中に井戸水で冷やしたスイカを包丁も入れず手で裂いてほおばり、夜空に打ち上げられた大輪の花火の火の粉をかぶりながら花火大会を楽しんだり、お盆の終わりに行われる精霊流しのお供えものを次の日に拾って遊んだりと・・・大阪の子でありながら本当に大自然を満喫した生活をしていました。
もちろん、寝る時も蚊帳を張って扉は開けっぱなし。夏休み前半では蚊帳の中にたくさんのホタルを入れてその明りを見ながら寝てしまう。朝には無残な大量のホタルの死骸。布団をあげて箒で掃除しないといけないのですけどね。正岡子規さんの心境とはまるでかけ離れたものですが、ホタルと聞くといつも思い出す懐かしい光景です。
あの大自然の名張川でも、ある時期から川のまわりをコンクリートで囲み、下流が詰まるからと長い間行われていた精霊流しも中止になりました。そういう環境の中では、町中で蛍が見られると言う事は当然難しい状態になります。それでわざわざ「ホタル見学ツアー」なるものもあらわれてくるのでしょうね。昔のとても良い時代を知っている私にとっては、とても残念な限りです。
が、大阪でも比較的自然の残っている鉢ヶ峯と言うところに住んでいる友人が、「最近、畑や山を潰して新しい住宅地が建ち出したから道路の開発が進んでくれて助かると思っていたのに、新しい住人たちが「ホタルを守る会」と称して道路の開発の中止運動を始めてくれて・・・迷惑やわぁ。」と言っていました。
その言葉に、今の日本の自然に対する結果がすべて表現されているのだと苦笑してしまいました。
まだまだホタルを自然に見られる所はあるのでしょう。
探して是非今年は見てみたいと思います。
毎月、職員達が交代でつれづれなるままに綴っております。