今月は寝屋川市で型枠工事業を営まれ、昨年創立40周年を迎えられた株式会社村井組様をご紹介致します。
皆さまは【型枠工事】というお仕事をご存知でしょうか?
ビルなどを作る際は、まず鉄筋で作られた建造物の骨組にコンクリートを流し込む為、ベニヤ板等で器となる型枠を作成します。その後、建てられた型枠の中にコンクリートを流し込み、固まった後その型枠を取り外せば建物が出来上がります。こうした型枠を組み上げ、コンクリート製の建物を形成する工事を【型枠工事】と言います。つまり型枠工事というのはマンション・ビル・住宅等の母体となる一番重要な作業です。
曲がっているなど言語道断ですし、仕上がりが汚いと左官が修正しなければならず余計な手間と費用がかかってしまいます。また工期が遅れると後に控える工事が全て遅れてしまうので、いかに綺麗に品質良く、そして期限内にきっちり仕上げるかが型枠職人の腕の見せ所です。
村井組さんの広大な資材置き場には、骨組みとなる鉄の支柱と、コンクリートを流れやすくする黄色い塗装をされた板が大量に積まれており、現場では作業員さんが板を設計図通りに切る作業をされていました。
今回はそんな村井組を一代で築き上げた村井不二夫社長に色々なお話を聞かせて頂きました。
香川県で10人兄弟の末っ子として生まれ、戦時中は都会から疎開してきていじめっ子の標的になっている子を守り、反対にいじめっ子をやっつけに行くなど、面倒見の良い少年でした。
終戦を迎え新制中学の1期生となりましたが、「職人になれば食いっぱぐれは無い」と考え、大工の道に進みました。2年間修行を積んだあと、昼間は大工の修行、夜は高松工芸高校に通って建築について学ぶようになり、3年間の大工修行を終えて昼間は型枠の修行も始めました。高松の鉄道病院を始め戦後復興で大きな建物が次々と作られる中、現場での修行は順調に進み、工芸高校3年生の秋、九州門司の鉄道病院建設の仕事に誘われました。
当時、工芸高校で建築を学び卒業した人の多くは番頭(今で言う現場監督?)の道に進みましたが、番頭の月収は7,000円、職人の月収は12,000円程。学校を出て番頭になるより職人の方が良いと思い、高校を中退して九州へ。そこで二年間建設に携わった後も東京立川の都営住宅、仙台の米兵兵舎、京都、岡山県牛窓など日本各地で大型の建築があれば足を運び、全国を飛び回る生活でした。
24歳の頃には独立し、人を使う立場に。高松県庁舎や倉敷市庁舎など、「世界のタンゲ」と呼ばれ日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍した丹下 健三氏の仕事も沢山請け負うなど、60年余りの職人人生の中で手掛けた仕事は枚挙にいとまがありません。
「旅回りの暮らしでなあ。法被に地下足袋姿でもてたんやで。」と半世紀前の貴重なお話を楽しそうに語って下さいました。
そんな生活をしながら倉敷市庁舎の建設に携わっていた頃、下宿先のお嬢様に一目惚れし26歳で結婚。式もそこそこに婚礼衣装を脱ぎ、奥さまと一緒に墨出し(仕上げ工事の前に建物の柱の中心線や床・壁の仕上げ面の位置など、工事の基準となる線を構造体などにしるす大切な仕事)をするなど一生懸命働いて貯めたお金を元手に27歳の時に大阪の門真に根を下ろされました。
これが株式会社村井組さんの前身です。
そこで30年以上営業されていましたが第二京阪建設の為立ち退きとなり、平成10年に現在の寝屋川市に新社屋を建設されました。
今回の取材にあたり、「読む人が楽しかったらええんや。」とご自身の半生を面白おかしく赤裸々に語って下さり、奥様の事も「美人で俺が惚れたんや」と、いくつになっても男前な社長。「体にあわん。」とお酒は殆ど口にされませんが、様々な方と積極的にお付き合いをして人脈を広げ信頼関係を築きつつ、「精度と時間」を常に意識し丁寧に仕事をしてこられたからこそ、建築業界全体が低迷されている今でも仕事が途絶える事が無いのでしょう。
また、紙面には書ききれませんでしたが、数々の武勇伝を持つ社長を40年間支えてこられた奥様の御苦労もはかり知れません。
豪快で男気溢れる社長、そんな社長を結婚式を挙げた日からずっと縁の下の力持ちとして支えていらっしゃる奥様(今回写真撮影には同席していただけませんでした)をはじめ、お仕事中にも関わらず快く取材にご協力下さる息子(専務)さんや社員さん、紅一点の事務員さん、そして多くの職人さん達のお力で、村井組さんはどんどん前に進んでいってくださる事と確信しました。
これからも益々のご活躍を期待致しております。
(担当:燒リ / 文:燒リ・鈴木)
株式会社村井組 様
〒572-0806 寝屋川市高宮1-22-6
電話072-880-6777 FAX 072-823-3700